「…。」
鉛のような心抱えて、香苗はロッジにきていた。
昨日、仕事でちょっとしたすれ違いがあった。
誰が悪いというわけでもなかったが、色々な人の言い分が錯綜し、香苗が変に注目され悪者のようになった。
そのせいというわけではないけれど、古くからいる職場仲間にも色々と嫌味を言われてしまった。
年の離れた同僚でもあり、香苗は特に抵抗もせず話を聞いているふりをしていた。
なんだか理不尽な扱いを受けたようで気分も晴れず、そのことを年の近い同僚に話したら、その同僚はすぐにみんなに言いまわっていた。
香苗に嫌味をいった人の耳にもその話が入ってしまい、香苗は肩身の狭い思いをするはめになった。
色々なことが重なって、香苗は心底嫌になっていた。
この間、真くんに誘われて林さんのシンギングボウルのイベントに参加したときには、心が洗われたような感覚を味わった。
あの時には、自分の心はすごく前向きにクリアになって、よしまた頑張ろうとそう思えたのに、今やまた心は不健康な状態に逆戻りし、香苗の心の中には鉛の塊がいくつもぶら下がっていた。
(ああ、自分って、なんでこんなだめなんだろう。どうしてこんな嫌なことばっかり自分には起きるんだろう…。精神的にも、すぐまいっちゃうことが多いし。)
そう思って真くんのロッジにやってきたが、うまく心の内や絶望感を言葉にすることが出来ず、ただただキッチンの前に座って真くんがいれたハーブティを眺めていた。
真くんが入れてくれたお茶を飲む気にもなれず、ただカップの底を眺めて、中身がさめるのを見届けていた。
部屋の中には真くんと香苗だけで、真くんは一人、部屋の隅で絵を描いていた。
***
カラン、コロン、カラン…
「おいっす、久しぶり。」
扉を開けて一人の男性が入ってきた。
林さんだった。
林さんにはこの間のイベントで、いい体験をさせてもらった。
香苗はイベントで不思議と心が軽くなったことを思い出していた。
自分から声をかけようか迷っている香苗の隣に林さんが腰かけた。
「こんにちは、こないだ来てくれたんだってね。ありがとう。」
「あ、いえ。こちらこそ。ありがとうございました。不思議と心が軽くなりました。」
慌てて返事をする香苗の近くに真くんがやってきて、林さんにハーブティを入れた。
香苗が飲んでいるものと同じハーブティだった。
「この間はありがとうございました。どうですか?新しいハーブですよ。」
「うん…。まずい。」
真くんは、新しいハーブティに辛辣な感想を述べた林さんをぎょっとした目で見て、また絵を描きに戻っていった。
林さんは何をするでもなく、ただ目の前のハーブティを少しずつ口に入れた。
時々首をかしげ、まゆをひそめながらカップの中を見たりしていた。
真くんは相変わらず絵と向かい合っている。
誰が何を話すわけでもない静かな空間が3人の間に流れていた。
***
「あ、あの…。」
香苗は思い切って口をついた。
何かを尋ねたかったというわけでもないが、今の心のモヤモヤをどうにかしたい気持ちがあった。
職場の人ではない人には、安心して話せるような気もした。
「ん?なに?」
林さんはこちらを振り向いて答えた。
この人を本当に信用していいんだろうか、こんなことを話していいんだろうか、など色々な思いが心の中に浮かんだが、今の鉛のような心の重さを解消したい一心で香苗は林さんに話しかけた。
真くんが筆を走らせる音が、二人の背中を埋めていた。
「私、仕事で色々とあって…。こんなこと聞くのもあれなんですけど、私ってだめなのかなって思って。」
香苗は職場であった色々な出来事、理不尽だと感じる扱いなどについて一連の話をしようと思ったが、言葉が口の中で渋滞してうまく話せず口ごもっていた。
「それはどういう状況で?」
「私が失敗したっていうより色々な人との兼ね合いの中で、結果的にこちらにしわ寄せがきた形といいますか…。色々な情報が錯綜して、結局私が色々いわれる形になっちゃったっていうか。うまく言えないんですけど。」
「そう。」
林さんはハーブティを一口のんで、顔をしかめてから話始めた。
「えっとね。あなたの状況がよくわからないからあれだけど。」
「はい…。」
「これは良く良くあるんだけどね。今回、あなたの人生には悪いことが起きたかもしれないけど、それはあなた自身がだめということではないかもしれないよ。」
「は、はあ…。」
「僕たちは、自分の人生にだめだと感じることや落ち込む出来事が起こることがあるでしょう。」
「はい、あります。」
今回の出来事はまさにそうだと感じた。
香苗は今回のことで職場の人たちへの不信感や、自分はだめだという気持ちにさいなまれていた。
「嫌だなあと感じることや最悪だと感じること、悪いことがあなたの人生には起きたかもしれないけど、それはあなたがだめということではないんだよね。
ほら、車とか運転してたらさ。看板が見えるでしょう。
あんな感じで、道すがら看板を見るように、その出来事に出くわすんだよね。
だけどあなた自身が最悪なわけじゃなくて、最悪な出来事を通りすがりに目にしたというようなイメージなんだろうな。」
「へえ…。」
香苗は全く新しい発想に触れて、新鮮な気持ちだった。
しかし、今回の出来事が心の中で消えるわけではないとも同時に感じていた。
「ただね、今は過渡期でしょう。
そういう出来事があってすぐには、誰しも冷静ではいられないし、感情的になっていたらその出来事とは向き合えないからね。そういう時期には目をそらしてリラックスしておくことだね。
必要があるなら喉元を過ぎてから向き合うこと、これがコツ。」
「そう、なんですか。私、今回のことでなんか自分の人生が嫌になっちゃって。嫌なことばかり起きるなあ、最悪って。」
少し間をおいて林さんが続けた。
「そういうこともあるだろうけど、それはイコールあなたがだめということでもないからね。さっきも言ったけど、道すがら最悪な出来事や嫌な出来事が書いてある看板を目にするようなものなんだから。」
「あとね、自分が接してて違和感がある人とか、この人なんでこんなことするんだろうって人いるじゃない。」
「はい。」
香苗は、信じて話した内容を言いふらしていた同僚のことを思い出していた。
そして、世の中そんなことばかりだとも感じていた。
「そういう人を見たときにね。それは後から自分が使うパターンを見せられていることがあるから、そういう目で気を付けてみておいたらいい。」
「あとから使うパターン?」
「そう。例えば、あなたが誰かに相談をしたり誰かと関わったりして、その相手の対応にどうにも違和感を感じることがあったとするでしょう。」
「はい。」
まさに先日と同じパターンだ。
「その違和感はね。気を付けてみておいたほうがいい。あとで自分が相談される側になったときや対応を迫られたときに、必要な技術が詰まっていることがあるから。他のケースでも同じだけどね。」
***
カラン、コロン、カラン…
林さんがロッジのドアを開けて外に出る。
林さんとしばらく話し込んでいた香苗は、太陽の強い光をドアの外に感じた。
車のエンジンと共に林さんが帰っていく。
「お茶、いれなおすよ。休憩しよう。」
そうはいっても私はずっと休憩していたんだけど、と思いつつ、香苗は真くんに向かってうんと返事した。
「ねえ、さっきの話きいてた?後から使うパターンってやつ。」
「ああ。聞こえてたよ。」
真くんがあついお茶を出してくれる。
「真くんもそういう経験って、ある?」
「そうね。あるかな。」
「例えば、どんな?」
「えー、例えば。例えばで言ったら、林さんも言ってたけど、自分が何か相談したときや誰かと関わったときに相手の対応に違和感を感じたとすると、その理由って結構大切なことが詰まってるなとは思うんだよね。
その人はこちらの気持ちを決めつけていて、それが実際の自分の気持ちと違うから違和感を感じる、とか、こちらの話は全然聞いていなくて自分の話ばかりするから違和感を感じる、とか、あるじゃない。
そしたら自分が人の対応をするときにはそうならないようにしたらいいんだと気が付くこともあるかな。ああ、こういうときにこういう風にしたら、こんな気持ちになるんだな、とかね。
違和感を感じる相手も、気を付けてみておくと後で自分が同じようなシーンで使うことがあるというのはわかる気がするね。」
「ふーん、いろんなものの見方があるんだね。」
「まあ、俺たちは特殊だから、あまり相手にしない方がいいよ。」
真くんは、俺たちはおかしいから、変なことばかり考えているしね、といって笑っていた。